2020年11月10日
真っ白な闇 「見えない/見える」ことについての考察
2017年に東京藝術大学 球形ホールで4公演だけ上演された森山未來くんの朗読パフォーマンス。
7都市、38公演の全国ツアーとして再演です。
初演の時、観たいけれど無理~💦とあきらめていた作品を観られる奇跡に感謝。
「見えない/見える」ことについての考察
演出・振付・出演: 森山未來
キュレーション: 長谷川祐子
テキスト: ジョゼ・サラマーゴ 「白の闇」
モーリス・ブランショ「白日の狂気」
共同振付: 大宮大奨 照明: 藤本隆行 音響: 中原楽
映像: 粟津一郎 舞台監督: 尾崎聡
2020年10月30日(金) 4:00pm フェニーチェ堺 大スタジオ 2列センター(全席自由席)
(上演時間: 1時間20分/休憩 15分)
公演内容について私の言葉で表現するのはとても難しく、以下は公式サイトからの引用。
私たちが本当に見ているものは何なのか。この問いの答えを見つけるとき、選び取ることの大切さに気づくことができるでしょう。パフォーマンス《見えない / 見える ことについての考察》は声と残像、そして森山未來の身体を通して私たちに語りかけてきます。
《見えない / 見える ことについての考察》はノーベル文学賞作家ジョセフ・サラマーゴの『白の闇』という小説から着想を得たテキストのリーディングを中心としたパフォーマンスです。ある日人々が突然視力を失う、それはいわゆる「黒い闇」ではなく、ミルクのように圧倒的な白い闇なのです。人々はパニックに陥り、弱者と強者の立場が入れ替わるなどの混乱がおきます。最後は視力を取り戻すものの、この体験を通して彼らは、見えることと見えないことの境界をリセットし、不確かな現代の中で本当に見なければならないものについて再考するのです。
この『白の闇』に、モーリス・ブランショ作の『白日の狂気』がメタテキストとして絡まってきます。これは強い光で視覚を失いそうになること、すべてが見えすぎることによってかえって見えなくなることを比喩的に語っています。明滅する光の残像の中に浮かび上がる森山未來の身体と、透徹した声で読まれる2つのテキストの響き合いは、未知のヴィジョンへと観客を誘っていきます。
(初演時概要より引用/キュレーター・長谷川祐子)
そして2020年、当たり前の日常を失い、新しい生活を築くこととなった我々に「本当に見ること」について問いかけます。
入場時に配られたイヤホンガイド。
会場入口のサイネージ。
ポスターと同じなのですが、少し雰囲気違いますね。
客席とシームレスになった舞台。
客席は開いたコの字型にステージを囲んでいます。
一番奥にスクリーン。その前に一脚の椅子とマイク。客席との間に空間があって、客席寄りの位置にカメラとストロボを配置。
未來くんのリーディングテキストは、本ではなくタブレットでした。
パフォーマンスが始まると、未來くんの肉声、スピーカーからの声、そしてこのイヤホンからと、三通りの声を聴くことになります。
目の前に座って朗読していた未來くんが、立ち上がって激しく動き始めても朗読は聞こえ続けていて、「あれ?録音だったの?」と思う間もなく、イヤホンからいきなりウィスパリングような未來くんの声が聞こえてきた時は、耳元でささやかれているようでドキリとしました。
中心となっているテキストはジョセフ・サラマーゴの『白の闇」。
世界中の人々が原因不明の病で視力を失いますが、それは暗闇の世界ではなく、「ミルクの海に飛び込んだような」真っ白な闇。「間もなく事態は収束する」という政府予想ははずれ、病院のベッドは不足し、人々はパニックに陥っていきます・・・1995年に描かれたこの物語の世界が、2020年の今の私たちとシンクロします。
そこに重なっていく「白日の狂気」の世界。
いろんな方角から耳に入ってくる声、音楽。
ストロボのフラッシュや照明の点滅になぞらえられた「闇」。
目と耳と脳と、心を限りなく刺激される舞台。
森山未來くんのフィジカルを通して今を、この世界を、彼を、彼女を、そして自分自身を感じる世界。
スタッフにはクレジットされていませんが、当日会場でいただいたフリーペーパーに掲載されたインタビューで未來くんが、「最初に演出家の赤堀雅秋さんに相談しながら構成を練っていったら、いかにも赤堀さんらしい、ト書きをほぼ使うことなく会話だけで物語を時系列で繋げていく感じでまとまりました」と語っていらして、「あー、赤堀さんね」と妙に納得した次第。
「白の闇」も「白日の狂気」も読んだことがないままの観劇でしたので、もとより難解な上にかなり混乱して、このパフォーマンスに込められたメッセージをすべて受け止めることができたとは正直言い難いです。
それでも、「見えなくなったんじゃない。もともと見えてなかったのよ」という台詞に象徴されるように、スマホからPCからTVから、ひと目で得られる情報があふれる毎日の中で、私たちは本当に見えているのか、本質を理解しているのか、と考える時間とも自省する時間ともなりました。
先述したインタビューの「今回の舞台で僕の方から客席に対して『見えない/見える』ことに対して答えを出している訳ではありません。これはあくまでも『考察』ですから。観客の皆さんがそれぞれ考えるのがいい。観終わった後で自分に問いかけ、他の人と大いに議論に花を咲かせていただきたい」という未來くんの言葉どおり、これからも折に触れて考え続けることになるのかなとも思います。
純粋に森山未來くんのパフォーマンスとしてもすばらしかったです。
激しさもしなやかさも、ダンスの枠を超えた動き。
「リアル マトリックス」とツイートされている方がいましたが、あの映画で有名になった銃弾を避ける後ろに反り返った動きをワイヤーなんて使わず、何ならもっと低い姿勢で、目の前で観たオドロキ。
「息づかいまで聞こえる」というツイートもよく見かけましたが、その息づかいさえ演出の一つだったのではないかと思います。意識して出しているところと、全く出さないところを線引きしているように思えました。
もう一つ驚いたのが、床に倒れた未來くんがフラッシュ点滅するたびに音もなく少しずつ動くのがまるで床が回っているようにしか見えなかったこと。一幕ですごく驚いて、二幕でもう一度再現されたのを観てもやっぱり床が動いているみたいに見えました。凄すぎる。昔ギエムのボレロ初めて観た時、両腕の軌跡が千手観音みたいに見えて以来の衝撃でした。
そういえば、朗読の途中で立ち上がる時、手にしたタブレットをさっとテーブルに置いた時と、テーブルを探るようにゆっくり置く時とがあって、「あれ?」と思ったのですが、ライトの明るさを調整する動きも少し違っていて、もしかしたら「見えている人」「見えていない人」を演じ分けていたのかなぁと後になって思いました。リピートして確認できないのがツライところ。
あと声ね。
口跡よく、時に甘く、時にメカニカルな語り口で響く声。
「森山未來の声が好きだー」と改めて思いました。
また歌も聴きたいな。
下手ドアの前にだけ、これが置かれていました。
全席自由席でチケットの整理番号順に入場だったのですが、前売り開始日までに尼崎で観るか堺で観るか確定できなかったためにチケット戦線に出遅れ、整理番号は45番(多分全員で70人くらい?)
が、入場したらぽっかり空いていた2列センターの席をちゃっかり捕獲。椅子にかけて朗読する未來くんと正対する位置でデレる
一幕で未來くんが客席に向かって写した写真が二幕でスクリーンに映し出された中に自分の姿があった時にはデヘッとなりましたが。
堺市民会館時代は何度か来たことがありますが、フェニーチェ堺になってからは初めて。
あちこちぴかぴかでウッディな感じの素敵なホールになっていました。
そして終演後外に出たら、まだ暮れ切っていない空に綺麗な月が。
ハロウィンブルームーンの前日だったのでした。
1回では観足りない感じ足りなくて、やっぱり尼崎も堺も観るべきでした のごくらく地獄度 (total 2175 vs 2173 )
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