
このコピーや「亡霊」という言葉が入ったサブタイトル、フライヤーの雰囲気から、ゴシックホラーか、もしくは岡田将生くんが息子になりすます犯罪劇かと思っていました。
が、そこに浮かび上がるのは、止まっていた過去から立ち上がって前へ進もうとする者と、まるで時代に取り残されたように動くことができない者が織りなす再生と喪失の、濃密な人間ドラマでした。
「ブラッケン・ムーア ~荒地の亡霊~」
作: アレクシ・ケイ・キャンベル
翻訳: 広田敦郎
演出: 上村聡史
出演: 岡田将生 木村多江 峯村リエ 相島一之
立川三貴 前田亜季 宏田力 益岡徹
2019年8月31日(土) 6:15pm シアター・ドラマシティ 10列センター
(上演時間: 2時間35分/休憩 20分)
物語の舞台は1937年のイギリス ヨークシャー州の重厚な屋敷の居間。
この家の主 ハロルド・プリチャード(益岡徹)は裕福な炭鉱主ですが、10年前に一人息子・エドガー(当時12才)がブラッケン・ムーアという荒野の廃坑に落ちて亡くなって以来、妻エリザベス(木村多江)はふさぎこんで家に引きこもっていますが、そんな彼女を励まそうと旧友のエイブリー夫妻(相島一之、峯村リエ)が息子とともに訪ねてきます。夫妻の息子 テレンス(岡田将生)は亡きエドガーの親友でしたが、彼にエドガーの霊が憑依して・・・。
冒頭はハロルドと炭鉱閉鎖によって失職に追い込まれたジョン・ベイリー(立川三貴)の議論が続きます。
相容れない二人の会話に、当時のイギリスやヨーロッパの経済・社会情勢、迫り来る石炭産業の行き詰まりと凋落、古い価値観の崩壊といった時代の転換期が透けて見え、それらを肌では感じながらも、保守的で傲慢な態度を崩さないハロルドの閉塞感がこの邸宅を覆っているように感じられます。
この後、この屋敷に現れるテレンスは若く聡明で、左派の思想を持つ芸術家。
二人の会話も相容れることはありません。
やがてエドガーがテレンスに憑依。
その言動がエドガーの魂だと信じて疑わない母 エリザベス。
テレンスが芝居をしていると決めつける合理主義の父 ハロルド。
ここでも夫婦でありながら相容れない二人が垣間見えます。
エドガーとエリザベスしか知り得ないはずの事実を次々と口にして、「僕を見つけて!ブラッケン・ムーアで!!」と叫ぶテレンス
・・・という前半はゴシックホラーの色合いが強く、とてもミステリアス。
岡田将生くんの迫真の演技もあって、「こっわ~」と背筋が寒くなって一幕終了しました。
二幕に入り、実はこれはテレンスの演技で、すべては知り得た情報があってのことと自らハロルドに告白したところで完結・・・と思いきや、そこからがこの作品の真骨頂。
愛する息子の死という哀しい過去から解放され、ひとり自分の足で歩く道を選ぶエリザベス。
「この屋敷を、壁を見るたびに、これは私のものではなく夫のものだと思っていた。そして私自身もまた夫の一部なのだと思っていた。あなたは私を、エドガーを、一人の人間だと思ったことがある?」という言葉をハロルドに向け、「もう帰ってくることはない」と言い残して旅出ちます。
凛と背すじをのばし、別人のように晴れやかな笑顔で。
エドガーの真実を突きつけられ、無力感や喪失感に打ちのめされながらも、動くこともできず、ひとりこの旧態依然とした屋敷に留まるハロルド。
家族も友人も従業員も、炭鉱も、自分が信じていたすべてのものを失ってなお生き方を変えることができない悲哀。
そこへ、2階から12歳のエドガーが降りてきます。
あれはハロルドの心が見せたものなのでしょう。
ハロルドは正気を失ってしまうのだろう・・・いや、もう失っているのかもしれない、そんなふうに感じられた幕切れでした。
憑依された「演技」の部分も含めて、感情の起伏の激しさもしっかり演じ分けたテレンスの岡田将生くん、すばらしい。
怜悧なほどの美しさと冷たい感じがこの役によくハマっていました。とても咲太郎兄ちゃんと同一人物とは思えない←
骨の髄まで旧い価値観が染みついたハロルドの益岡徹さんもとてもよかったです。
傲慢さと悲哀、落差の大きさもしっかり。テレンスがエドガーの日記を差し出した時の恐怖と絶望が入り混じったような表情が忘れられません。
エリザベスの木村多江さんはよくも悪くも映像のイメージそのままでしたが、アンニュイで薄幸な雰囲気の前半と、しなやかで強い後半の対比が鮮やかでした。
プリチャード家にもテレンスにも真摯なに仕える忠実な女中でありながら、自分の保身第一の俗物的な面を持っているアイリーンを演じた前田亜季さんが短い出番ながら印象的。
峯村リエさん、相島一之さん、立川三貴さんも間違いない安定ぶりで、良質な人間ドラマの趣きでした。
事前の印象と違っていたのはうれしい誤算でした のごくらく地獄度



