2016年11月24日
「鱈々」 を観て大阪の劇場不足を感じる
この人が出るお芝居で関西で上演されるなら無条件に観る、という役者さんが何人かいて、藤原竜也くんもその一人。
だから、この作品が1993年に初演された韓国の現代劇だということを知ったのはチケットを取ったずっと後になってからでした。
原題は「プゴテガリ」。
干した鱈の頭のことで、韓国ではこの干し鱈の頭でだしを取ったスープをよく食べるのだそうです。
「鱈々」
作: 李康白 (イ・ガンペク) 翻訳: 石川樹里
演出: 栗山民也
出演: 藤原竜也 山本裕典 中村ゆり 木場勝己
2016年11月14日(月) 7:00pm 新歌舞伎座 1階11列下手
物語の舞台はとある倉庫。
ジャーン(藤原竜也)とキーム(山本裕典)はこの倉庫で働き、この倉庫で暮らしています。
その中身が何かも知らないまま伝票通りの番号の箱を倉庫から出してトラックに積み、また倉庫に入れる作業をする2人。
社会の底辺にいる2人ですが、自分に与えられた仕事を完璧にこなすことが自分の存在価値だと信じ、ひたすら仕事に励むジャーンに対して、キームは単調な生活に嫌気がさし、適当に働き、夜は外で酒を飲み女と遊ぶ毎日を送っていました。
そんなある日、キームの遊び相手であるミス・ダーリン(中村ゆり)、さらにトラック運転手である彼女の父(木場勝己)が倉庫に現れて2人の日常に変化が訪れます・・・。
天井まで積み上げられたいくつもの木箱に囲まれた倉庫の中で展開される物語。
窓はなく、白熱灯のあかりと、時折開閉される入口の扉から外の光が差し込む時だけ明るくなる倉庫内。
たくさんの箱や2人のベッドまわりなど細かくリアルに作り込まれた装置(美術: 松井るみ)が閉塞感に拍車をかけます。
中身や意味を知らないまま終わることなく毎日続く作業。
作者の李康白さんは、「現代社会を生きる人間を、小さな倉庫で暮らす存在になぞらえた」とおっしゃっていて、つまり、この倉庫は社会の縮図であり、箱を運ぶという2人の仕事は象徴的、抽象的なもののようです。
とにかく真面目に緻密に指示通りに箱を出し入れするジャーンが、キームの悪戯心でわざと番号の違う1箱をトラックに積んでしまったことを知り、箱の管理者からのクレームを待つものの何の反応もなく、自分がこれまで心を砕いて完璧にやっていた仕事の価値を顧みてその信念が揺らぐシーンは切ないです。
そんな傷心のジャーンに追い打ちをかけるように、ミス・ダーリンと成り行きのように結婚するために倉庫を出て行くと言うキーム。
「行かないでくれ」と何度も何度も、でも弱々しく訴えるジャーンがますます切ない。
このジャーンのキームに対する思いが「愛情」、つまりジャーンは同性愛者だということを観劇後に知ったのですが、私は観ている間はそんなふうにはあまり感じませんでした。
食事の用意をしたり、服にアイロンをかけてやったり、遊ぶためのお小遣いを渡したり、何くれとなく世話をやく様子は、過剰な友情というか、過干渉な家族愛というか、何でしょ、やんちゃな弟の世話をやく姉(←)みたいな感じです。
キームも「まるで継母だ」なんて言っていましたし。
キームが倉庫を出て行く時、ジャーンに遺していった鱈の頭。
体を失った鱈に「虚しい思いが詰まった頭だけが取り残された」と孤独な自分を重ね合わせ一人語るジャーン。
それまで、比較的淡々と、静かな語り口調だった竜也くんジャーンが、抑えていた感情を一気に迸らせる様は痛々しいほど。
ボトボト落ちる大粒の涙に思わずもらい泣きです。
最後には、この不条理な世界の中で自分にできること・・・正確に箱を出し入れして誠実に仕事をしていこうと決意を語るジャーン。
これからも木箱に囲まれて生きていくのであろう彼の魂が救われることを、心から願うばかりです。
静謐なまでの、抑制された演技を見せる藤原竜也くんが新鮮。
そしてどんなに弱々しくてもきちんと聴かせる台詞術には相変わらずホレボレ。
トラックの運転手にして博打打ちの木場勝己さんの心身両面の逞しさと俗物感も特筆モノ。
こんな木場さん初めて観ました。
木場さんといえば、「海辺のカフカ」のナカタさんの印象が強烈でしたが、当たり前だけど全く別の人がやっているよう。役者さんってやっぱり凄い。
この作品は、できればもう少しキャパの小さな劇場で、濃密な空間で観たかったと思います。
彼らの閉塞感も、もっと際立ったのではないでしょうか。
少なくとも新歌舞伎座で上演するような作品ではないと思うのですが。
そういう意味では大阪も劇場不足なのかな。
通常は花道がある場所の席はパイプ椅子だったよ の地獄度 (total 1662 vs 1668 )
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください
この記事へのトラックバック