2016年07月05日

翔び立つ白い鳥 「尺には尺を」


shaku.jpgそれまで舞台を覆っていた「七つの大罪」を描いた宗教画のパネルが取り払われると、広がる青空。
その青空に向かってイザベラ(多部未華子)が放つ白い鳥。
青空に吸い込まれるように翔び立つ白い鳥が、何だか蜷川さんに重なって思えました。

シェイクスピア全37作品の上演を意図して1998年にスタートした彩の国シェイクスピア・シリーズ。
32番目のこの作品が、「演出: 蜷川幸雄」とクレジットされる最後の作品になるなんて。
あと5作品を残して、これが「蜷川幸雄の遺作」と呼ばれることになるなんて。


彩の国シェイクスピア・シリーズ第32弾  「尺には尺を」
原作: ウィリアム・シェイクスピア
演出: 蜷川幸雄 
演出補: 井上尊晶
翻訳: 松岡和子
出演: 藤木直人  多部未華子  原康義  大石継太  廣田高志  
松田慎也  立石涼子  石井慎一  辻萬長 ほか

2016年6月26日(日) 1:00pm シアター・ドラマシテイ 5列上手


物語: ウィーンの公爵 ヴィンセンショー(辻萬長)は、領地の全権をアンジェロ(藤木直人)に託して出国します・・・が、実は修道士に身をやつして、権力が人をどう変えるのか観察するのが目的でした。公爵の寛容な政治姿勢が不満だったアンジェロは厳しく臨み、結婚する前に恋人を妊娠させたクローディオ(松田慎也)という若い貴族に死刑を宣告します。この知らせを聞いた修道院にいるクローディオの妹 イザベラ(多部未華子)はアンジェロを訪ね、死刑取り消しの慈悲を求めますが、イザベラの美しさに心奪われたアンジェロは、自分に操を捧げるなら兄を許してやる、と持ちかけます・・・。


「七つの大罪」って何だったか忘れちゃって調べ直してみたら、
傲慢・憤怒・嫉妬・怠惰・強欲・暴食・色欲 で、これ、「暴食」以外はこのお芝居に全部出てくるなぁとさすがに上手い舞台装置に関心。
というか、この七つの罪、人間たるものすべて持ってるよと改めて思います。
「怠惰」とか「嫉妬(羨望)」とか「暴食(大食)」なんて、不肖スキップ、日常茶飯事であります。


という己の罪深さはさておき、観終わった後、最初に感じたのは、「主役はヴィンセンショーだったなぁ」ということです。
この物語のキモは、自他共に認める「エリート」で真面目で堅物のアンジェロが、一時的にせよ権力を手に入れたことで冷徹な支配者とも傲慢な権力者ともなって、人間として破綻してしまう愚かさ、哀しさを描くところにあると思うのですが、今回の上演を観る限りでは、ヴィンセンショーの存在感が抜きん出ていたと思います。

ヴィンセンショーにしても、たとえばイザベラの代わりにマリアナを差し向けるあたり、女性を物扱いしているような面や、アンジェロの若さや有能さに少なからず嫉妬しているようなところが見え隠れして、最後にはちゃっかりイザベラに言い寄るなんて、決して一言に立派な人物とは言い難いのですが、人間的な厚みも魅力も感じられ、何となく水戸黄門の世直し名裁き的な印象を受けるのは、辻萬長さんの熱演によるものだと思われます。「クローディオを裁いた法律でアンジェロも裁かれるのだ・・・尺には尺を、だ!」とアンジェロに迫る台詞、迫力たっぷり。


裏を返せば、アンジェロの藤木直人さんもっとガンバレ、という・・・(笑)。
端正な部分が前面に出て表情の変化に些か乏しく、権力を手中にするとそれを使わずにはいられない愚かさや、イザベラを自分の思うようにした(と思っている)後は保身のために約束を反故にしてクローディオの死刑を早めるよう命じるなんていう手前勝手な人間にはあまり感じられませんでした。感情の起伏や緩急つけた変化がもう少し欲しいところです。

イザベラの多部未華子さんは期待通り。とてもよかったです。
意志を感じるチカラのある瞳で真っ直ぐ前を見据えてきりりと放つ口跡よい台詞の数々。清冽で、自分の操を守るためなら兄が死刑になるのも致し方なし、という聖女らしい残酷さもどことなくチャーミングで、多部ちゃんの雰囲気に合っていました。


shaku2.jpg冒頭、役者さんたちが舞台上で三々五々話したりウォーミングアップするうちに開演時間となって横一列に並んで・・・というお馴染みの演出や、大石継太さん、立石涼子さん、石井愃一さんといった蜷川作品常連の役者さんたち、見慣れた感のある小峰リリーさんの衣装など、いかにも「蜷川作品」というところが随所にあるのに、それでもどこか物足りなさを感じてしまう・・・

一つには、この作品のお稽古中は蜷川さんはすでに入院していらして、稽古場に立つことは叶わず、映像を通してのチェックのみだったと知っている私(たち)の先入観があるのではないかと思います。
つい、いつもの蜷川作品ではない、という目で見てしまう・・・いかんなぁ。

もう一つ思い当たったのが、現代感覚。
シェイクスピアの作品は普遍性があると感じるものが多いですが、シェイクスピアに限らず、ギリシャ悲劇でも古い日本の話でも、ひとたび蜷川さんの手にかかると、その物語の中のお話として完結するのではなく、普遍性というか、まるで現代社会の縮図のようであったり、今 世界で起こっていること、私たちが抱えている問題に通じるリアリティをいつも感じることができたのではないかと思います。今回は、そのあたりが少し弱かったかなぁ、と。
たとえば、もはや「デキ婚」 が市民権を得ているような今の日本で、「結婚前に恋人を妊娠させたから死刑」って何?という感じではあっても、その事象を超えて訴えかけてくるものがあるのが蜷川演出作品だったと思うのです。


白い鳥が飛び立った青空が残る中、カーテンコールに登場する蜷川さんの写真。
あれはズルイ。絶対泣くもん。
幕が下りて終演アナウンスが入った後も拍手は鳴りやまず、もう一度幕が開いたステージ上では役者さんたち皆がその蜷川さんに向かって拍手していらっしゃって、その姿を見てまたナミダ。



IMG_2836.jpg

ロビーには、「久光製薬カルチャー・スペシャル」として上演されてきた蜷川作品-第1回「王女メディア」(1999年)から今回の第15回「尺には尺を」まで、すべての作品のパネルが展示されていました。
私は冒頭の3作品を除いた12作品を観ました。
たくさん笑って泣いて、心震わされた舞台ばかり。
ああ、蜷川さん、本当にこれが最後なんだ。



やはりまだ、蜷川さんのいない舞台の世界が想像できない の地獄度 (total 1588 vs 1594 )


posted by スキップ at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・ミュージカル | 更新情報をチェックする
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