2012年に舞台「海辺のカフカ」を観た時、ステキな作品ではあったのですがいくつか疑問点もあって、「原作を読んで検証する必要がありそうです」と書いたのにそのままになっていました。
今年その舞台が再演されるにあたり、一か所とても苦手な場面もあって、どうしようかと迷ったのですが、宮沢りえちゃんが演じる佐伯さんを観てみたいし、新しいカフカ少年・・古畑新之くんというスター誕生の瞬間に立ち会えるかもしれないと思いチケット取ったのでした。
ということで意を決して読み始めました。


「海辺のカフカ」
作: 村上春樹
初版: 2002年9月12日 新潮社
十五歳になったとき、少年は二度と戻らない旅に出た。
誕生日の夜、少年はひとり夜行バスに乗り、家を出た。生き延びること、それが彼のただひとつの目的だった。一方、ネコ探しの名人であるナカタ老人も、何かに引き寄せられるように西に向かう。暴力と喪失の影の谷を抜け、世界と世界が結びあわされるはずの場所を求めて―。
ちょうど1年前の5月に参加した村上春樹さんの公開インタビューで「1979年から小説を書き始めて、書きたいことが書けるようになったのは2000年位から。その最初の作品が『海辺のカフカ』」とおっしゃっていましたが、村上春樹さんがこの作品で書きたかったことって何だったのかなと思います。
同じインタビューで、「人間は二階建の家みたいなもので、一階には家族との暮らしや他の人との関わりがあり、二階は一人で音楽を聴いたり本を読んだりする空間、地下一階には記憶の残骸がある。この部分だけでも小説は書けるけど、そのさらに下の地下二階に降りなければ本当に人の魂に訴えるものは書けない」という発言もあって、この“地下二階“の部分が描かれているのだろうと想像はしてみるのですが。父を殺して母と交わるというエディプスコンプレックスを下地にした物語。
シンボリックでメタフォリックな世界観。
あの舞台は私の周りのハルキストやカフカファンにも好評でしたが、こうして原作を読んでみるとさもありなんという感じで、よくこの原作をあれほど忠実に、だけどしっかり舞台作品としてつくり上げたなぁと改めて思いました。
もちろん、舞台では描ききれていないというか、カットされている部分もあって、こうして読んでみるといろんな繋がりや細かい事象に「なるほど」と思うことが多々ありました。
が、舞台を観て感じた私の最大の疑問-「なぜ、カフカ少年は父親を殺さなければならなかったか」は結局理解できなかったというのが正直なところです。
死と生、過去と未来、世界の内側と外側、カフカくんと佐伯さんとナカタさん・・・。
カフカ少年とナカタさんの話が並行して進む物語。
「1人称と3人称が交互に出てくる」と春樹さんがおっしゃっていたことを読みながら思い出して、ああ、そうだった、と思ったりも。
前半はカフカくんの章の方に興味シンシンだったのですが、物語が進むにつれてナカタさんと星野くんの動向が俄然楽しみになってきました。
それにしても舞台でナカタさんを演じた木場勝己さんは本当にイメージそのままだったなぁと読みながら感嘆。本の中で木場さんのナカタさんが息づいているように感じました。もう他の人のナカタさんなんて考えられないくらいです。
文字で読むとやはり言葉の美しさが印象的です。
たとえばカフカ少年が何日間か過ごす森の場面。
電気もない山小屋でMDウォークマンの電池が切れてしまっても、「音楽にかわるものはいたるところにあった。鳥のさえずり、様々な虫の声、小川のせせらぎ、樹木の葉が風に揺れる音・・・(中略)・・・地球がこれほど多くの美しく新鮮な自然の音に満ちていることに、これまで僕は気づかずにいた」
それ、ワタシも気づかずにいましたよという感じ。
美しい森が目に浮かぶよう。その森にカラダも心も埋めてみたいと思いました。
物語の主筋とはあまり関係ない(と思われる)こんな部分も実は村上春樹さんの「書きたかったこと」のひとつなのではないかしら。
原作を読んだ後で観る今年の舞台も楽しみになってきました のごくらく度


