
何の変哲もない鉛筆がお箸になったり、こどものおもちゃになったり、切断される指になったり。
それがあたかも作り込まれた装置や小道具と同じようにリアリティを持って私たちの目の前に繰り広げられます。
これぞ舞台の醍醐味。演劇の限りない可能性を見た思い。そして、こんな舞台に出会えた幸せを感じる瞬間です。
NODA・MAP 番外公演 「THE BEE」 Japanese Version
原作: 筒井康隆~「毟りあい」より~
共同脚本: 野田秀樹 & Colin Teevan
演出: 野田秀樹
美術: 堀尾幸男
出演: 宮沢りえ 池田成志 近藤良平 野田秀樹
2012年5月30日(水) 7:00pm 大阪ビジネスパーク円形ホール C列センター
(上演時間: 75分)
筒井康隆の小説「毟りあい」を戯曲化して2006年に英語版として初演された作品。
脱獄した殺人犯・小古呂(近藤良平)に、妻子を人質に取られ自宅に立て籠もられた平凡なサラリーマン・井戸(野田秀樹)。小古呂の妻(宮沢りえ)に説得を頼みにいくものの断られ逆上し、その妻と息子(近藤良平)を監禁し逆襲に出ます・・・。
張り詰めたような緊張感の続く75分。
観ているうちに気分はどんどん暗鬱になっていきます。
どんな理由があるにせよ暴力による報復からは暴力しか生まれないという「暴力の連鎖」。
知性も良識もある温厚で平凡な男性が、自分の内なる暴力性に支配され狂気の淵へと追い立ててられていく様は目を背けたくなるほどですが、その狂気の矛先となる小古呂の妻が暴力に屈服し、極限状態の中からそれに慣れ従い、命じられる前に自らの指を差し出すようになる姿は、観ていて背筋が冷たくなる思いです。
そんなテーマ性もさることながら、この作品のもう一つのすばらしさは、野田さんがプログラムの冒頭で「演劇の根源的な力」だと語っている「見立て」にあると思います。
たとえば鉛筆。
手に鉛筆をはさみ、これを指に見立て、鉛筆を折ること=指を切断すること という約束事・・・これは舞台だから成し得ることで、映像では成立しないものでしょう。指を切断して血の一滴すら流れないのに、観ている私たちはどんなスプラッタな映像よりも強くイマジネーションを刺激され、直視に耐えかねる痛みに顔を歪めることになるのです。小道具と、演出と、そしてもちろんそれをそれと見せる役者さんの演技力と。演劇の力って凄い。「見立て」の威力って凄まじい。
一つの小道具がいろいろ姿を変えるように、この作品では役者さんも、警官だったりリポーターだったり、脱獄囚だったりその息子だったりと、役柄を変化させていきます。その中で、野田秀樹が終始一貫して一人で演じる井戸はやはり、被害者から加害者へとその姿を変貌させるのです。
これほど役者として前面に出ている野田秀樹さんを観たのは久しぶりのような気がします。いや、初めてかも。演出家が芝居にも出ている、のではなく、役者として堂々の主演俳優ぶり。
知的で温厚な普通のサラリーマンが自分でも御し難い暴力の衝動に狂気へと暴走していく様は圧巻。一線を越えた瞬間のあの目、周りを気圧すほど鬼気迫るものがあって、ほんとにコワかった

そして宮沢りえ。
1月に観た「下谷万年町物語」のりえちゃんもすごく良かったけれど、この作品でもすばらしい。
いかにも荒んだ生活を送っているすれた雰囲気、そして全身からあふれ出る生々しくエロティックな輝き・・・それまでの警官姿から綺麗な脚も露わに登場したときの鮮やかさ。思わず「あっ!」と声が出そうになりました。色っぽくて下卑た感じもするのに不思議な透明感があって、なんとも加虐心を煽る風情。最初は激しい言葉で井戸を罵っていたのに、やがてすべてを諦めてしまったように、共存関係さえ感じさせるように、井戸の前に身を投げ出し、食事の支度をし、やがて自らの指を差し出す姿は残酷で痛々しくて切ない。これ、実際の犯罪でもよく聞く現象です。マインドコントロールとも言われますが、実際自分がその立場になったらどうだろう、やはり同じように従ってしまうかしらと考えるととても絵空事ではなく、観ていて息苦しく、気持ちも萎えていく思いで甚だ居心地が悪い。
それにしても宮沢りえ。ほんとに凄い女優さんになったものです。
俗物的な百百山警部を緩急自在な演技で見せた池田成志。小古呂と小古呂の息子を卓越した身体能力で演じ分けた近藤良平(←ほんとに、あの大きなおじさんが儚い6歳の子どもに見えた)。個々の力量もカルテットとしても非常にクォリティが高く見応えのある舞台でした。
指を切り落とされ息絶えている小古呂の妻とその息子。
おそらく井戸の家では彼の妻子が同じような姿を晒していることでしょう。
「自分が指を切り落としている相手が誰なのかもうわからなくなってしまった」と言いながら、自分の指をまな板に乗せ、包丁を振り上げる井戸。
そこに無数の蜂の羽音が響き始めます。これまでいろいろなものに姿を変えてきた茶色の紙が丸められ、横たわる小古呂の妻も息子も、そして井戸さえもひとまとめにその紙に覆われ、その上に、まるでゴミにたかる蝿のように羽音を響かせて飛び交う無数の蜂。
息をするのも忘れていたような濃密で「痛い」時間が終焉を迎え、少しだけほっとしたのでした。

そういえば、開演前には




やっぱりEnglish Versionも観たかったな のごくらく地獄度




れてしまいました。(笑)
「見立て」の威力!
まさに演劇ならではな表現であり
強みであり魅力ですよね。
(しみじみ)
最近は、説明過多だったり妙にリアルだったりな舞台も
あるけれど、観客もたゆまず“想像するチカラ”を鍛え
なきゃいけないなぁと自戒しました。
役者としても真ん中でパワーを発する野田さん!
観たかったです…。
スキップさん感想や舞台の様子をドキドキしながら拝見
しつつ、見逃した無念さを噛み締めました。
野田さんの舞台には「ヤラレタ!」と思うことがしばしばですが、
今回もその一つ。作品的にはちょっと「ダイバー」に似た雰囲気でしょうか。
そうそう。
何だか説明台詞や映像やと過剰なまでにわかりやすくしようとする
お芝居、多いですよね。
もっと観客の想像力も信用していただかないと(笑)。
それと同時に観客の方も観る目、イマジネーション力を鍛えていかないと、
と野田さんに改めて示された思いでした。
この演目、前の公演を観てちょっと後を引くキツさだったので、
今回は断念しちゃったのです。
(まあ、野田さんの作品は大抵後を引きますが)
でも、スキップさんは他の方の感想を読ませていただいて、
観にいけば良かったなあ、と後悔中です。
りえちゃん、どんどんすばらしい女優さんになっていきますね。
うーん、観てみたかった!
私は逆に、前回も、その前のEnglishi Versioの初演も、
そして映像も全く観たことがなくて白紙の状態でした。
あ、でも何となくいや~な感じの世界だということは
知っていました(笑)。
感想の中にも書きましたが、観ていて暗鬱な気分になる
作品で後味も悪いですが、それ以上に演劇としての
すばらしさや役者さんの演技に感銘を受けました。
りえちゃん、本当に凄いです。
次々よい作品にお呼びがかかるのもナットク。
9.11のアルカイダとアメリカの報復の連鎖が下敷きになっているということでしたが、私はイスラエルとパレスチナの長く続く戦争とアメリカによる仲介というイメージが湧いてきました。池田成志の百百山警部のメッセンジャーぶりや適当にふるまう感じが、優先順位の低い状況に対応するアメリカのイメージにぴったり(^^ゞ
もちろん人間の中にある狂気や脆さ儚さなどもぐいぐいと迫ってきて苦しいくらいで、宮沢りえの色気と儚げな透明感でどうやら救われていました。この苦しさはリピートを難しくしそうだと納得です。
子どもの鉛筆だったものが切られる指になったり、日本バージョンの大きな紙を敷き詰めてドアや窓を切ってあるだけでなく、ちぎって封筒にすることまで、「見立て」の力、演劇の手法の豊かさには唸らされました。
次の「エッグ」にも期待が膨らみます。先行予約でなんとか第二希望が当たったのが昨日わかってホッとしてます。
う、蜷川さんの「騒音歌舞伎」は落選してしまいどうしようか検討中。いやぁ、芝居の魅力に取り込まれると大変だけど頑張っちゃうしかなかったりしますね。
上演時間は短いですが、あれが限界かな、という感じでした。
あれ以上見せられると苦しすぎる気が・・・。
テーマの重さもさることながら、ぴかちゅうさんのおっしゃる通り
「見立て」の力、演劇の手法の豊かさ、そして役者さんの演技に
本当に演劇としてのチカラを感じました。
私がこれまで観た野田さんの舞台の中では、「ザ・ダイバー」と
双壁でしょうか。
「エッグ」と「ボクの四谷怪談」私も何とかチケットゲットできて
どちらも観る予定です。2作とも10月・・・そんなことしている間に
今年も終わってしまいますね(笑)。
ほんとに、舞台を追いかけていると何かと心せわしく、時間も
すぐに過ぎて行ってしまいます。