2010年09月16日

井上ひさしさんが遺してくれたもの 「黙阿彌オペラ」


mokuami.jpg執筆中だった新作を病魔のため断念せざるを得なかった井上ひさしさん。それならばとご自身が、代わって上演を希望された「黙阿彌オペラ」。1995年の作品です。

井上ひさし追悼公演 「黙阿彌オペラ」
作: 井上ひさし
演出: 栗山民也
出演: 藤原竜也  北村有起哉  大鷹明良  松田洋治  
朴勝哲  熊谷真実  内田慈  吉田鋼太郎

2010年9月12日(日) 1:00pm  シアター・ドラマシティ 4列センター


柳橋の蕎麦屋「仁ハ」を舞台に、幕藩体制も崩壊しつつある江戸末期(1953年)から明治14年までの28年間を、そこに集う人々の人生模様を時代の移り変わりとともに、ユーモアとペーソスをまじえて描く物語。

雪のふりしきる夜、後の黙阿弥こと河竹新七(吉田鋼太郎)は、しがないざる売りの五郎蔵(藤原竜也)と互いに川に身投げしようとしたところを、互いに引き止め合います。
蕎麦屋で、店主のとら(熊谷真実)も交えて互いの身の上話を語り、翌年同日、同じ場所で再会を約束して別れます。
1年後、蕎麦屋のとらは店に置き去りにされたおせんという女の子を育てていました。とらの提案で、みんなでお金を出し合い、おせんの将来に投資しようと、新七、五郎蔵の他に、売れない噺家の三遊亭円八(大鷹明良)、五郎蔵の弟分だという久次(松田洋治)、貧乏浪人 及川孝之進(北村有起哉)も加わって、「おせん株仲間」が結成されます・・・。

江戸から明治にかけてのドラスティックな時代の変化、その中を生き抜く市井の人々のたくましさが、実にのびのびと描かれています。江戸という古い時代にこだわり続ける新七(黙阿弥)、ひょんなことから外国に通じることになったおせん、その間で右往左往する男たちの配置がおかしくも見事。
技量の揃った役者さんたちの口から次々と繰り出される名セリフの数々。笑いころげたり、ほろりとしたりしながら、一つひとつの言葉が、まるで井上さんからの贈り物のように心に響きます。
中でもとりわけ印象的だったのは・・・。


柳橋の売れっ子芸者に成長したおせん。株仲間の“おじさんたち”相手に話します。
「捨てられた次の日、泣いてばかりいるあたしをおばあちゃんが古着屋さんに連れて行ってくれた。前の晩から大雪で客はあたしたちばかり。おばあちゃんが花模様の綿入れを買ってくれた。そしたら、その古着屋の男の子が、『ちゃん、これで米が買えるね』ってうれしそうに言った。古着屋のおじさんも、『おうよ。3升ばかり買って来な。ついでに漬物屋で沢庵も2本買って来な。こんな雪の日だ。客があればあそこも喜ぶ』・・・あたし、その時、これがおばあちゃんがいつも言ってた『御恩送り』だと気づいた。あたしたちが綿入れを買って、古着屋のおじさんが喜んで、おじさんがお米と沢庵を買って、またお米屋さんと漬物屋さんが喜んで・・・」
まるでみんなの笑顔が目に浮かぶようにやわらかく語られる「御恩送り」・・・この物語のテーマにもなっているようですが、人の心のぬくもり、人と人との絆を感じ、とても深く心に沁み入りました。

そしてもう一場面。
時代が明治へと移り、仲間たちは新七(黙阿弥)に新しい芝居を書け、オペラを書けと勧めます。
「国家のためだよ、新七さん」
「文明開化のため」
「狂言作者部屋のみなさんのため」
「ひいてはおいらたちの銀行のため」
・・・それまで黙してじっと聴いていた新七が、目に切ない色をたたえて口を開きます。
「いずれにしても、ご見物衆のためではないですな。」
ここに、井上さんの劇作の神髄を聴いた気がしました。いつもご見物衆=観客、そして庶民の側に立って、その目線で数々の名作を生み出して来た井上さん。
河竹新七は、井上さんが自分自身を投影した役だったのでしょう。
「政府は維新を急ぎすぎてはいないか。台本も急いで書くとあとでぼろが出る」なんて、遅筆堂と言われた井上さんを思い起こさせてくすりとしたり。
黙阿弥もさることながら、井上さんの書かれる日本語の美しさに改めて感動したり。
「人の心と言葉はそうやすやすと変わりませんよ」という台詞に胸を熱くしたり。
あぁ、井上さん。もっともっと井上さんの書かれるお芝居を見せていただきたかったです。

黙阿弥の作に照らして、『三人吉三』の「月も朧に白魚の~」の名文句をおせんがオペラ『カルメン』の「ハバネラ」かな?に乗せて歌ったり、『河内山』の「悪に強きは善にもと、世の譬えにも言う通り、親の嘆きが不憫さに・・・」をおみつや五郎蔵が名調子で、しかも見得を切りながら聴かせてくれたり、というふうに歌舞伎で知った台詞が散りばめられているのも楽しく、改めて日本語の美しさに聴き惚れました。かと思えば、株仲間から銀行を興し、やがて失敗することになる五郎蔵たちの姿に、現代にも通じる社会情勢やお金のからくり、何でも新しいものへとなびく風潮を皮肉っているような、井上さん独特の反骨精神も垣間見られ、「『黙阿弥オペラ』には今という時代のこと全てが詰まっている」とおっしゃったということを実感しました。

銀行のビジネスに失敗し、死ぬこともできずにまた仁八蕎麦に帰ってきた五郎蔵たち。そこに聞こえてくる赤ん坊の泣き声。
「また振り出しだ」と笑う五郎蔵。そして一旦幕が下りて再び上がると、まるで打ち上げをしているみたいに、みんな笑顔で食卓を囲んでお蕎麦を食べたり、赤ちゃんをあやしたりという演出。庶民のたくましさと明るい未来を感じさせる、心地よい幕切れでした。
お金に目が眩んで紆余曲折があったりもしますが、この物語に出てくる人たちはみんないい人ばかり。そしてそれを見守る作者の視線がまた温かく、その温かさが観ている私たちにも伝わり、こちらまでやさしい気持ちになって元気もいただきました。まさに「心の按摩」です。

8人の出演者はいずれも熱演。
あの膨大なセリフを矢継ぎ早に繰り出してブレない。皆さん口跡がよくセリフがしっかり聞こえるので、凝った台詞の数々もきっちり耳に、心に届きます。8人がまるで一つの劇団のように、ハイレベルにバランスが取れていてすばらしいです。
藤原竜也くんにしては珍しい役の五郎蔵。汚いなりをしていてもカッコよすぎるキライはあるものの、ひと皮むけたような熱演。井上さんが、「この役をぜひ藤原くんに」とおっしゃった意図がわかるような気がしました。ご本人ものびのび楽しそうです。
立場的に一人反対側にいる河竹新七は吉田鋼太郎さん。新しい時代をもろ手を挙げて喜べない苦みを漂わせ、品も格もある存在感はさすがです。相変わらずいい声だし。
そして特筆すべきは老婆のとらと娘のおみつを鮮やかに演じ分けた熊谷真実さん。のどは少しつらそうでしたが、かなりハイテンションで、思ったことをズバズバ言って、口は悪いが気風のいい“オトコマエ”なとらばあさん。大好きでした。


本当ならば『木の上の軍隊』という藤原竜也・北村有起哉・吉田鋼太郎の3人芝居が上演されるはずだった今回。会場にはスチール写真や和田誠さんデザインのポスターも掲示されていました。
ここまで準備して書き上げることができなかったのはさぞご無念だったことでしょう。
代わりに上演された『黙阿彌オペラ』。この作品に出会えてよかったと心から思います。
もし井上さんが亡くなっていなかったら、このキャストでこの舞台を観ることもなかったかと思うと何だか切なく、複雑な気持ちですが、美しい日本語で語られる練られた台詞の数々に、井上さんの思いが込められた戯曲・・・おそらく死を覚悟されたであろう井上さんが、最期にこの作品を選ばれたお気持ちをしっかり受け止めたいと思いました。


位置情報 カーテンコールは、2度目からオールスタンディングオーベーション。
そんな中、竜也くんがスッと袖に入り、井上さんの遺影を胸に抱いて舞台に戻って来た時には、ひと際大きな拍手が起こりました。

位置情報 この日は紹介してくださる方があって、終演後に某役者さんの楽屋訪問。
お疲れでしょうに、明るい笑顔で接してくださった役者さんには感謝の気持ちでいっぱいです。
楽屋の入口に歌舞伎役者さんみたいに名前を染め抜いたのれんがかかっているお部屋があったり、他のお芝居の時にもよく役者さんたちがブログなどで紹介していらっしゃる「さし入れを置くテーブル」(千穐楽だというのにまだいっぱいお菓子が載っていた)があったり、興味シンシン目
はたまた別の役者さんと廊下ですれ違ったり、と終演後もかなりテンショングッド(上向き矢印)な1日でした。

IMG_3816.jpg
こちらはトートバッグ。
プログラムとのセットはsold out だったのですが、その役者さんにいただいたものです。ありがとうございましたムード
プログラムにも描かれていましたが、柳や人力車、文明開化の香りがするイラストです。


井上ひさしさん すばらしい作品の数々、ほんとうにありがとうございました のごくらく度 わーい(嬉しい顔) (total 688 わーい(嬉しい顔) vs 689 ふらふら)


posted by スキップ at 23:41| Comment(12) | TrackBack(1) | 演劇・ミュージカル | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
スキップさん。
どうにもチケットが取れず、断念したこの舞台。
スキップさんの感想を読ませていただいて、
舞台の様子の一端に触れられた喜びと、
観れなかった悔しさの両方を感じています。
「御恩送り」の言葉、とても胸に響きました。
憎しみの連鎖を作ってしまう人間は、
こんな風に笑顔の連鎖も作ることができる。
当たり前のことかもしれませんが、
こんな風に言葉になると、はっとする思いでした。
素敵な感想をありがとうございました。
いつか再演してくださることを祈りつつ・・・
Posted by 恭穂 at 2010年09月18日 22:41
スキップさんが書かれたたくさんの台詞を読みながら
ああ、そやそや、そうやった~と再度かみしめております♪
あの素敵な言葉「御恩送り」について、私、お芝居を見ながら
勝手に意味を拡大解釈していることに気づきました(苦笑)。
ありがとうございました!
でも、スキップさんが書かれているように、見知らぬ人
どうしも、どこかでつながっているんだと思うと、
なんだかとてもあったかくなれる気がします。
この作品をこのカンパニーで観られたことがよかったですね。

楽屋訪問ができたなんてステキ!
そういうのは「ご縁送り」?(笑)
次回お会いした時は役者さんのお名前をおしえてね♪

「さらば八月のうた」の感想を書いたらスキップさんちに
コメントを書こうと思っているうちに、体調を壊して
ついに感想をパスしてしまいました~(涙)。
特別な時だけ「座」のつかない場所にも行ってます!
なムンパリでした。うひ♪
Posted by ムンパリ at 2010年09月18日 23:56
素敵な感想、拝見しました!
劇中、数々の素敵なセリフがありましたねぇ。
スキップさんの感想を読んで、
改めて「ご恩送り」という美しい日本語を認識しました。
何とも言えない程”優しい”言葉ですね。

>河竹新七は、井上さんが自分自身を投影した役・・・
私もそうだと思います。
セリフの端々で垣間見えてましたねぇ。
新作がなかなか書けない苛立ちや、
才能ある新人作家が次々に現れる焦りなど。
井上さん自身の苦悩を表してたと思います。

楽屋訪問という貴重な体験をされたんですね。
いやぁ~羨ましい!
竜也くんと遭遇しましたか?(笑)
Posted by 麗 at 2010年09月19日 02:11
♪恭穂さま

そうです。恭穂さんのコメントを読んで気づきました。
井上さんの『ムサシ』をはじめ、野田さんや蜷川さん、
「憎しみの連鎖」を描く作品は多いですね。
この『黙阿彌オペラ』が、ある意味それとは対極ともいえる
「御恩送り」をテーマにしていることが、この作品に
とても心惹かれる一因かもしれません。
ありがとうございます。

名作ですのでキャストは変わるでしょうが、きっとまた
再演されると思います。
その時こそぜひご覧になって、ご感想を聞かせてくださいね。
Posted by スキップ at 2010年09月20日 07:02
♪ムンパリさま

もう書ききれないくらいステキな台詞の数々でしたが、
頭にも容量があって覚えきれず(笑)。
やっぱり文庫本、買おうかしら。

ムンパリさんの「御恩送り」の解釈、拡大解釈でもないと
思います。つきつめるとそういうことになるのだと思います。
“情けは人のためならず”っていうことですかしら。

はい。
今度お目にかかった時には、どの役者さんで、どんなふうだったか
事細かに(笑)、ご報告いたします。

そうそう、ムンパリさん、「さらば八月のうた」もご覧に
なったのでしたね。「座」のつく劇場ばかりでなく、ここは
というポイントはハズさないのですね。
さて、平成中村「座」にはいらっしゃるのでしょうか。
Posted by スキップ at 2010年09月20日 07:11
♪麗さま

きちんとした美しい日本語で書かれた練られた台詞がこんなにも
心に響くことを改めて認識した舞台でした。
「御恩送り」・・・観て聴いている私たちまでやさしく幸せな
気持ちになるお芝居でしたね。
河竹新七を通して、井上さんの作家として陰影も少し
知ることができた思いです。

>竜也くんと遭遇しましたか?
はい!
お訪ねしたのは残念ながら竜也くんの楽屋ではないのですが、
廊下で至近距離で(笑)すれ違いました。
ステキでした~♪
Posted by スキップ at 2010年09月20日 07:21
私が見たのは7月30日ですから、もう50日も前のことなのに、スキップさまの丁寧なレビューで改めて様々なことを思い出しました。
ちょうどこの「黙阿弥オペラ」を見る少し前に、同じ井上さんの作「天保十二年のシェイクスピア」を花園神社で見ました(藤原さん、北村さんも、一緒にご覧になったそうです。めちゃ暑かったのに)。当時はその爆発的なエネルギーを引きずって「黙阿弥」をちゃんと消化できてなかった気が・・・。でも、いま静かに思い返すと、ほんといろんなシーンが甦ってくるんですよ。スキップさまが大阪公演をこうしてレポしてくださったおかげです。どうもありがとう!!
トートバッグ、稽古写真入りのプログラムとセットで買いました。大きめでしっかりしてるんで、仕事がらA4の紙を束で持ち歩く私はとても重宝しています。
そうそう、私は紀伊國屋サザンシアター最後列から見たのですが、お隣は関西マダム2人でしたワ。
Posted by きびだんご at 2010年09月20日 08:31
自分が見てから何日もたって、それでもこうしてスキップ様のレポを拝読すると、あの舞台は自分の記憶の中でちっとも色褪せていないことをはっきり感じます。色々な場面が目に浮かび、大笑いしたこと、ほろりときたこと、思い出し、ああ優れた芝居を見てよかったと思いました。

楽屋訪問、ステキ!! 興味津々なご様子が想像できますゎ(^^)
Posted by SwingingFujisan at 2010年09月20日 20:49
♪きびだんごさま

『黙阿彌オペラ』は、井上さんの作品の中でも「かなり好き」な部
に入るもので、レポにもつい力が入って長々と書いてしまいました(笑)。
『天保十二年のシェイクスピア』も大好きな井上作品の一つです。
2005年の蜷川演出版は藤原竜也くんを見直すきっかけになった作品
です(我ながら何て上から目線なんだ)。
暑い夏に野外劇場であの作品、はすごく強烈な印象を残しますね。
しかも、その暑さの中、竜也くんも有起哉さんもご一緒にご覧に
なっていたなんて、ステキです。

このトートバッグは確かに少し大ぶりで使い勝手がよさそうです。
白いので汚れてしまうのがいささか心配ですが。
大阪はプログラムは舞台写真入りの1種類のみだったんですよ。

うふふ。関西マダム?関西人はどこへ行っても言葉があれですから、
すぐわかっちゃいますかしら。
Posted by スキップ at 2010年09月20日 21:53
♪ SwingingFujisanさま

私もここ最近観た舞台の中ではひと際印象に残る作品となりました。
たくさんの場面、数々の台詞が今も心に浮かびます。
ほんとにこの舞台を観ることができてよかったと、心から思います。

楽屋訪問は想定外のおまけでしたが、私にとってはかなりビッグイベントで
ほんとに、興味シンシン、テンションア~ップ!でした(笑)。
Posted by スキップ at 2010年09月20日 22:00
スキップさん♪
今更ながら参りました(笑)。
井上さんの舞台は何本か拝見しているのですが、
今回ほど、日本語の美しさを実感したことはありませんでした。
「ご恩送り」は言葉は初めて耳にしたのですが、とても気に入ってしまいました。
御自分が新作を断念された時に、どういう思いでこの「黙阿弥オペラ」
を選ばれたんだろう、キャストの皆さんはどう思って演じているんだろうと
考えずにはいられませんでした。
そしてステキなカーテンコールだったようですね~。
是非またいろいろお話聞かせてください。楽屋訪問の話も(笑)。
Posted by みんみん at 2010年09月21日 00:01
♪みんみんさま

私も、この「黙阿彌オペラ」で、今さらながら井上戯曲のすばらしさを
心ゆくまで味わいました。
さり気ない台詞も、磨き抜かれた日本語で、すごく練られていて、
これなら“遅筆堂”も許す、っていうカンジ(笑)。

「御恩送り」は以前、井上さんが何かに書いていらしたかどこかの場で
発言されたのを文字で見たことはあったのですが、今回こうして、
おせんちゃんの言葉で目に浮かぶような情景が語られて、本当に
心にしみ入りました。
カーテンコール、次の回には鋼太郎さんが遺影を抱き、竜也くんは
代わりに鋼太郎さんから土瓶?を渡されていました。
ほんとに仲よさそうですよね。
次回お目にかかった折には楽屋訪問レポをご披露しますね。
Posted by スキップ at 2010年09月22日 01:00
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『黙阿彌オペラ』@新宿紀伊國屋サザンシアター
Excerpt: 藤原くんにぜひ出演して欲しいと井上氏が願っていたというこの作品。 しかと観てきましたよー! 「黙阿彌オペラ」 人情に厚い昔の日本
Weblog: ARAIA -クローゼットより愛をこめて-
Tracked: 2010-09-19 01:49