2020年01月17日

25年目の祈りの朝


1月17日
祈りの朝と決めている日
あの朝から25年が過ぎた今日も、それは変わりません。

「昨日と同じ朝」を迎えられることが決して当たり前ではなく
どれほど幸せなことか、感謝の思いは日々募っています。


5年前に一度だけ、このブログにあの朝とそれから数日のことを書いたことがあって、今日それを読み返したら、また泣いてしまいました。
あふれる思いはたくさんありますが、これ以上のものを文章として再現できそうにないので、ここに再掲させてください。




20年の祈りの日に


1995年1月17日午前5時46分。
あの日から20年という時が流れたことが信じられない思い。

お気楽が身上のブログですので、阪神淡路大震災のことを書くのは多分初めてですが、自分の中で風化させないためにも20年の祈りの日の今日、少し書き残しておきたいと思います。

「安全と水はタダ」と思っている日本人であり「関西には大地震はこない」と信じていた典型的な関西人だった私の価値観が変わったあの日。


あの日の朝。
3連休明けの火曜日で、前夜あまり眠れず明け方になってやっとまどろみ始めた時に感じた激しい揺れ。ベッドのサイドボードの上に置いていた目覚まし時計が床に落ちた!
大阪市内の自宅に被害はありませんでしたが、何日か経って、おそらく家中で一番重い「家具」であるピアノが動いているのを発見した時は驚きました。

当時はインターネットも今ほど普及していなくて、もちろんTwitterなんてなかったので情報収集はもっぱらテレビとラジオ。電話は全くつながらない状態。公衆電話からだと繋がりやすいと聞いたので試してみましたがやはりダメでした。最寄駅からの電車は動いていましたので、とりあえず会社に行ってみようと出かけましたが、ターミナルの天王寺駅に着いたら、地下鉄御堂筋線が止まっていてタクシーにも長蛇の列。これは無理と一旦帰宅。
それでも、自宅で収集できる情報は限られるので意を決して再度出発したところ、天王寺で地下鉄堺筋線は動いていることを知りました。
一人の駅員さんにみんな群がって「自分は□ □ に行きたい」と言うと「動物園前から堺筋線に乗って△△で乗り換えて・・・」とテキパキ指示してくれました。

動物園前駅まで歩いて堺筋線に乗って堺筋本町まで行き、中央線に乗り換えて本町までたどり着いて出社。
会社にはほとんど人はいなくて、いろんなところで棚から落ちたファイルが散乱したり花瓶や壺が割れていたりしましたが、一見したところ大きな被害ではない模様。
それから上司や同僚に電話をしてみましたがやはり全く繋がらず。

その後に取った行動のことは後々まで「あんな時にようそんなこと思いついたな」と笑われたのですが、その日の夜は新年会の予定で某ホテルの中華レストランにキャンセルの電話を入れたのでした。だって、「あの予約、キャンセルしなきゃ!」と思ったんだもん。
先方は電話をかけたこと自体に大変恐縮されて「こんな状況ですので重々承知しております」とおっしゃっていました。

阪神間に住む上司と連絡がついたのは翌日になってから。
こちらからの電話は相変わらず通じないままでしたが、上司が携帯電話からかけた電話が繋がったのでした。
電気は2日目に何とか復旧したもののガスと水道は止まったまま、寒くて水が不足しているとおっしゃっていましたが、ご家族含め皆さんご無事ということでした。

「差し入れに行かなきゃ!」
梅田の阪急百貨店に行くと、パン売場にパンが全くありませんでした。
デパートのパンの棚がカラ・・・あんな状況を見たのは後にも先にもあの時だけです。
梅田では食べものを調達するのは無理、と判断して天王寺まで戻り、近鉄百貨店ですぐに食べられるパンやお寿司や総菜、電子レンジで温めればよいレトルト食品などを調達し、ショッピングカートも購入。
デパートにも全くなかったペットボトルのお水は近くの商店街の酒屋さんに頼みこんで3本だけ譲っていただきました。

阪急電車神戸線は西宮北口まで動いていました。
荷物をたくさん持った人でギュウギュウの阪急電車に乗り込み西宮北口へ。
淀川を渡っても普通の状況が続いていた車窓の眺めがある地点から一変し、目の前に広がる信じられないような光景に、ざわついていた車内が一斉に言葉をなくし、水を打ったようにしんと静まり返ってただただ窓の外に目をこらしていた数分間のことを忘れることができません。

西宮北口から上司の自宅まで、止まっていた阪急今津線沿いをショッピングカート引きながら3駅分歩きました。
道路を歩けないところは線路上を歩いたりしながら。
あのあたりは私が学生時代を過ごした場所でもあり、倒壊した阪神高速、姿がわからないくらいになった行きつけのカフェ・・慣れ親しんだ街並みの無残な姿に声も出ませんでした。
本当にどうしようもないくらいの衝撃を受けた時は言葉どころか涙も出ないことをあの時初めて知りました。

上司の家に着いたのは会社を出てから5時間位経った夕刻。
かえって心配されていたりして(笑)。

上司の笑顔を見て安心し、それからどうやって帰ったのか、そしてその後1ヵ月位のことはほとんど記憶がありません。
会社では毎日対応に追われ、クタクタになって帰宅して連絡のつかない神戸方面の友人、知人の消息を確認したり、テレビや新聞で報道される被災者の皆さんや地域の情報を見聞きしては泣いてばかりいました。
もちろんそんなことは、被災された方々の苦難や悲しみを思うと何の苦労でもありません。


それからの神戸をはじめとした街々、人々のがんばりには目を見張る思いでした。
20年経って、つめ跡も感じられないくらいに戻ってきた美しい街並み。
TVのニュースで見た「死んだ者には20年とか区切りはないの」とおっしゃっていた遺族の方の悲しみの表情が心に突き刺さりました。


posted by スキップ at 23:14| Comment(2) | diary | 更新情報をチェックする